湘南を代表する名居酒屋「久昇」、最後の日。

酒を嗜む者であれば、藤沢の地でその名を聞いたことのない者はいない。藤沢、いや湘南を代表する大衆居酒屋の名店「久昇(きゅうしょう)」。この唯一無二の名店が、2017年10月いっぱいで閉店するとの噂を聞きつけたのが10月上旬。その最後を見届けるべく、閉店間近のお店に足を運びました。

お店に向かったのは、10月28日(土)。31日が最終営業日ですが、すでに閉店の噂を聞きつけたお客様の予約でいっぱいだといいます。そこで最終営業の前日(日・月は休み)である28日に、何とか予約を入れることに成功しました。

閉店を惜しむお客様で予約はいっぱい。

お店に着いたのは開店前の15時。開店前のお店の様子を取材させていただきます。店内を覗くと、一足早く仕込みを終えた板長さんが休憩中。やがて通称“旦那さん”と呼ばれる松本さんもお店に到着し、本日の予約のお客様の人数を確認しながら、席を割り当てていきます。

「すいませんね、今日も予約でいっぱいでちょっとお相手できなくて……」とおっしゃる旦那さん。「こちらのわがままでこんな忙しいときに取材をさせてくれなんて、本当に申し訳ない」と恐縮の限り。そんな開店前の慌しい様子も拝見させていただきました。

ほぼすべての席が予約の紙で埋まり、突き出しが並べられます。やがて17時、暖簾が入り口にかけられ大きな提灯に明かりが灯るのを合図に開店。店が開くのをいまや遅しと待ちわびていたお客様が、次々と押し寄せてきます。

  • ▲ 仕込みを終えた、筋煮込み

  • ▲ 名物のおからを大量に仕込み中

  • ▲ どの席も予約で満席に

開店から満席で、店内は大混乱。

この混雑は、決して今に始まったことではありません。もう何年もの間、予約なしでは入れない状態が続いていた「久昇」ですが、この名店の最後に立ち会おうというお客様の熱気は、いつも以上にヒートアップ。開店後からほぼ席が埋まり、次々と注文の声が飛び交い店内は大混乱です。

その混雑に輪をかけたのが、予約をせずにいらっしゃったお客様。普段なら18時からの予約でふさがっている席を「1時間だけでいいから」と頼み込めば、その1時間だけでも至福のひとときを楽しむことができました。私もよくそのように利用しており、その流れを期待して立ち寄った常連さんも、今日だけは無理。「ごめんなさい、今日はいっぱいなんですよー。申し訳ない!」と恐縮する松本さんの声が、数分に1回のペースで響きます。

  • ▲ 開店直後、すぐに満席に

  • ▲ このメニューも見納めに

開店から30分も経って、一通り、始めの飲み物や肴が席に届けられたようで、ようやく店内が落ち着き始めます。周りを見渡すと、店内はお客様の笑顔でいっぱい。テーブルの上には名物のおからや新鮮な刺身、そして月替わりの限定品など、ここ「久昇」でしか味わえない絶品料理が並びます。

  • ▲ 新鮮な刺身の盛り合わせ(ハーフサイズ)

約40年、板場を支えた板長。

そんな老舗の味を支えてきたのが、板長として親しまれている藤永光郎さん。日本料理屋で働いていた板長は、40歳の時に「ほんの4~5日手伝うつもりで」この店に来たといいます。

「この店で初めて“さらし”(※人前に立って調理をすること)をやったのですが、お客様が目の前で “美味しい”といってくれると嬉しくて、疲れや苦労がすっと吹き飛ぶんですよ。それが病みつきになったのでしょうね。それに私は大の負けず嫌いだったので、“周りの職人に負けてたまるか”と、一心不乱に打ち込んだ結果、今に至りました」(藤永さん)

  • ▲ 板長の藤永さん

「今でもカウンター越しにお客さんと他愛もない話をしながら料理をつくり、お出ししたものを美味しいって言ってもらうこと以上の喜びはありませんよ」という藤永さん。今年で77歳と喜寿を迎えてもまだまだ現役。熟練の職人の鮮やかな包丁捌きが間近に見ることができ、軽妙な会話を楽しめる“板長前のカウンター席”は、その席を常連が指定するほどの特等席です。

  • ▲ “特等席”から板長の仕事ぶりを拝見

そうした板長さんと並んで、この店を魅力的にしているのが料理を運ぶお姉さま方たち。妙齢の女性スタッフやベテランの“昔のお姉さま方”による、アットホームな接客がこころをほぐしてくれます。顔を見かけるや「あら、久しぶり。元気?」、メニューで悩むと「これが今一番美味しいから食べてみて!」などと、優しく笑顔で話しかけてくれます。

しかしそんな店内を眺めて、唯一残念なこと。それは上品な物腰と、誰よりも輝く笑顔が素敵なおかみさんの姿が見えないこと。体調が優れずしばらくお顔を拝見していません。実は今回、久昇が暖簾を下ろすことになったのも、おかみさんの病気療養に専念するためなのです。

  • ▲ 笑顔が素敵なお姉さま方も、名物

  • ▲ かわいらしい佇まいの「明太じゃがいも」

おかみさんがいなくなっても、店は続けられなくはありません。現に今日も多くの方たちで賑わっています。しかしやはり、おかみさんあっての「久昇」。“あの方なくして、「久昇」はない”そんな判断をされたのではないのでしょうか。大変残念ですが、私たちはその決断を敬意とともに受け入れるしかないのです。

最後の〆はやっぱり親子丼。

さて、絶品料理に旨い酒、楽しい会話、そんな楽しい時間もあとわずかで終わろうとしています。最後の〆の一品として、これも名物の「親子丼」をオーダーしました。旨みがあふれるちょっと甘めの出しに、プリッとした食感の鶏肉、そしてとろり半熟の卵がたっぷり。「あー、やっぱり旨い……」と、思わず声に出てしまうほどです。

残念ながら席を経つ時間です。「長い間、ご苦労様でした」と、旦那さん、板長さん、板さん、お姉さま方、全員にご挨拶をして店を後にしました。扉を開けると、外にはやはり人だかり。「何の騒ぎ?」と店先を覗き、店頭の閉店の知らせを見て「え!」と驚く人。最後の記念にお店を撮影する人。色んな方々が、さまざまな形で名店の最後を惜しみます。

  • ▲ とろっとした卵とほんのり甘い味付けが絶品

  • ▲ 最後のお会計は“旦那さん”こと松本さんに

さあ、昭和46年からちょうど46年間続いたお店もいよいよ終わりです。「久昇」はもうなくなりましたが、その精神を受け継ぐお店「昇」(藤沢)や「企久太」(鎌倉)もあります。そして「久昇」の跡地には、また新たなお店「晟久」もでき、その今後にも期待がもてます。しかし、今はただ、「久昇」に感謝の気持ちをお伝えしようと思います。

「久昇」さん、本当に幸せな時間を過ごさせていただきまして、ありがとうございました!

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